【お気持ち表明】禁止告知から見るマジック
禁止告知から1週間が経った。
今回はスタンとヒストリックに対しての禁止、相棒のルール変更がなされることが事前にアナウンスされていた。
禁止についてもそうだけど何よりも相棒のルール変更という前代未聞の処置にあちこちで話題に上っていた。
そしてやっぱりというべきかその告知は様々なところで物議をかもしている。
僕もこの改定を見ていろいろ思った1人だ。
先に断っておくと僕はお気持ち表明が得意ではない。
なので誰かを共感させようとかこの界隈に一石を投じようなど一切考えていない。
この記事は僕がこの瞬間に思ったことを後で見返すための記事だということをあらかじめ記しておく。
まず、やはり大きな反響を呼んだのは相棒のルール変更だろう。
これまでもカード単位での細かい修正・エラッタは行われたことがあったがメカニズムすべてが別物になったのはおそらく初めてだ。
イコリアリリース以降、相棒が根本からおかしいことは早い段階で認知されていた。
そして公式からも何度か相棒についてルール変更も含めた議論をしていることが言及されていた。
だから変更が加わることに関しては僕も異論はない。
ただ僕は腑に落ちていなかった。
それは僕自身が相棒というメカニズムを楽しんでいたからだ。
確かに相棒はマジックの根底を変えてしまった節がある。
変更がなされていなければ確実に相棒以前・相棒以後といった具合の断絶がもたらされるのは確実だった。
それでも相棒を擁護したくなるには大きく分けて3つの理由があった。
1つ目の理由が相棒の使用感がとてもよかったからだ。
制限は創造の母とマローが常々口にしている通り、相棒がデッキ構築に与えた制限は久しぶりにデッキ構築欲を刺激した。
そして相棒は僕にとって使ってみて楽しく使われて不快でないメカニズムだった。
普通に考えると強すぎるメカニズムは使われるとウンザリすることもしばしばあるが、相棒に関しては例外だった。
おそらくゲーム前に相棒が見えてることでキープ基準が決められるから一方的に蹂躙されることが少ないことが起因しているんじゃないかなと思う。
まあ、それがゲームの分散性を下げて不健全な方向にマジックを進めていることも確かで、相棒というメカニズムの壊れ具合の一端を担っていたわけだが。
ともかく相棒は端的に言って楽しいメカニズムだった。
よく強すぎるカードが出現するたび「公式はテストプレイをしていない」「テストプレイチームは仕事しろ」などと冗談交じりに批判されることがある。
相棒に関してもその手の批判がなされているのを何度か目にしたことがあるし一時期の僕もそう考えていた。
1枚1枚のカードはともかく目玉能力丸々壊れてましたは仕事しててないでいいでしょ
— ゆーとぴあつりー (@teilving) 2020年6月1日
だけど最近は「しっかりテストプレイをした、だからこうなった」という考えに代わった。
それはテストプレイしたのでなければここまで強さと楽しさを両立したカード(しかもサイクル・メカニズム単位で)が作れるとは思えないという結論に至ったからだ。
そもそも少人数のテストプレイチームが製作途中でカードの効果も収録されるカード群も変化する中で行ったテストプレイ環境と収録カードが完全に固定された環境で全世界のマジックプレイヤーが24時間絶えず試行錯誤を行う現実の環境を比べて「なぜ見逃したんだ。見ればわかるだろ」と批判するのはお門違いもいいところだったと僕自身の発言に対して思う。
そして「安全だが弱く面白みに欠けるカード」よりも「強くて危険だが使って楽しいカード」を優先するのがマジックのあるべき姿だとも思う。
それがセットの看板になるメカニズムであるならなおさらそうだったのだろう。
2つ目の理由が相棒がいたこの環境が(少なくともスタンでは)ひどく歪んでいるとは思わなかったからだ。
実際《空を放浪するもの、ヨーリオン》を使ったデッキがトップメタには君臨こそしていたが、《夢の巣のルールス》や《巨智、ケルーガ》、《獲物貫き、オボシュ》といった他の相棒もメタゲームに食い込んでいたし、《空を放浪するもの、ヨーリオン》デッキ自身もジェスカイルーカファイアーズにする以外にアゾリウスにまとめたりバントカラーにしてみたりと1つの相棒にも選択肢は複数存在していた。
また、荒野の再生やジャンド要塞、ウィノータなどの相棒を使わないデッキも存在し、イコリア以降のメタゲームは群雄割拠の様相を呈していたように見えた。
少なくともArenaで遊んでいる間、僕は特定のデッキに対する過剰にヘイトが高まることはなかった。
これは環境がうまく自浄作用を働かせてメタを回していたからといえるんじゃないかなと思っている。
相棒が消えたスタン環境は何も失わなかった荒野の再生とジャンド要塞あたりが早速結果を残したようだ。
相棒がいたときから活躍していたデッキたちだ、即座に結果を出すことは当然のように思う。
これが一時的なメタゲームの側面であり、相棒がいたときより良い環境が生まれるかは基本セット2021次第だ。
3つ目の理由が相棒というシステムがイコリアでなければ収録されなかったであろうという明確なフレーバーに基づいたメカニズムだったからだ。
メカニズムには大きく分けて2つあると考えている。
1つが変容や星座、動員みたいなその次元やストーリーに深く根差したフレーバーに富んだメカニズム。
もう1つがサイクリングやキッカーなどのゲームバランスのために採用されたフレーバーに寄り添っていないメカニズムだ。
こういう形で2つに分けると、相棒というのは圧倒的に前者に含まれるメカニズムだといえる。
まず、イコリアというのを端的に表すとそれは怪物の世界といえる。
強大で理不尽な災厄を撒き散らす怪物とそれらから身を守り対抗する人間たちという対立構造がイコリアという次元が他の次元とは違う明確な要素の1つだ。
しかし、同時にそんな分かり合えないはずの両者が絆で結ばれ協力しながら生きていくという要素もイコリアたらしてめている要素の1つだ。
これらの要素のうち、相棒は後者の要素をゲームにうまく落とし込むために作られたものだ。
そして相棒はその仕事を見事にやり遂げている。
なぜそれはクリーチャーなのか。それは概念的存在でも非生物でもない生身の生き物であるからだ。
なぜそれは人間ではないのか。それは人間と怪物の絆をフィーチャーしている。そしてプレイヤーは(ほとんどの場合)人間だ。
それはなぜゲーム外から出てくるのか。それはプレイヤーのそばに寄り添い、協力を求めるときには素早く駆け付け君の助けになるためだ。
なぜデッキ構築に制限をかけてくるのか。普通人間と怪物は対立しているものだ。その両者が手を取り合うとすればそれは互いの中に同じ価値観、もとい絆が必要だ。
何故それは相棒という名前なのか。これまでの要素でカード(怪物)とプレイヤー(人間)は互いに同じ方向性を持ってデッキ作成という共同作業を成し遂げた。そして実践では君の呼びかけに従いゲームを有利に運ぶ手助けをしてくれる。それはもはや一蓮托生の存在、相棒と呼ぶにふさわしい関係を表しているからだ。
ヴォーソスだけでなく、メルヴィン的視点からもフレーバーに富んだとてもよくできたメカニズムだと思う。
さて、僕が相棒を楽しんでいた理由は挙げたけど、当然相棒というシステムが壊れていたことも認識している。
かつて第3回グレート・デザイナー・サーチという企画で提出された《遠見の忠告/Farsight Counsel》というカードがあった。
それは青黒6マナのソーサリーで1ドローするだけのカードだったが、ゲーム外から唱えてもよいというデザインだった。
このカードは開発部内で「やるかどうかは置いといて適切なマナコストはいくらになるか」という議論が活発になされたカードだったとマローが紹介している。
それから時を経て、その時の議論が活かされたかどうかは確かめる術は僕にはないが、満を持してマジックの世界にやってきた相棒はその議論は十分に生かされなかったように思う。
6マナソーサリーで1ドローできるだけの呪文が散々議論されたのだ。
生物という形で戦場に残り続け、最悪そのままゲームを決めることができるカードのコストにしては甘すぎる決定だったと思う。
これは単純に今ある相棒たちのコストを増やせばいいという話ではない。
もちろん今の相棒たちのコストはそのパワーに対して安いが、根本はもっと別のところにある。
それは「毎ゲーム必ず初手にありしかもハンデス等で邪魔されない安全な8枚目の手札」という点だ。
前述のとおりスタンダードではうまくメタを回していたとはいえ大量の強力カード、サポートカードがある下環境ではそうも言えない。
わざわざ語るまでもないだろうから詳しくは語らないが相棒というシステムの都合上ヴィンテージでさえ禁止にするしかなかったというだけで十分その脅威は語れる。
しかし相棒はイコリアの看板メカニズム、多くのプレイヤーに使ってもらいたいという気持ちがあったのだろう。
みんなに使ってもらうにはカードパワーが求められる。
WotCは相棒が持つデッキ構築に制限をかけることが結果的にコストとして働きある程度のカードパワーを担保できると思ったのかもしれない。
だがその結果は知っての通り。
その制限はコストとしては緩すぎ、もしくはコストにすらなっておらず結果的に何の制御もかかっていない相棒は次々と下環境を自分たちで染め上げてしまった。
かくして相棒はマジックの歴史を激変させてしまった。
ここでWotCは下環境において相棒をすべて禁止にすることも選択できたが、それは彼らが望んだ未来ではなかったようだ。
だから相棒そのもののルールを変更するという前代未聞の解決策に移った。
では実際にどう変わったのか。それを見てみよう。
各ゲーム中に1度だけ、あなたはソーサリーを唱えられるとき(あなたのメイン・フェイズの間でスタックが空であるとき) にを支払うことでサイドボードからあなたの相棒をあなたの手札に加えることができる。これは特別な処理であり、起動型能力ではない。
つまり、直接ゲーム外から戦場に出していた代わりに3マナを支払って手札に加えられるようになったというわけだ。
この変更を見たとき僕はある知見を得た。
それは今までの相棒は超強力な『願い』をいつでも撃ってていたようなものという事実だ。
『願い』はゲーム外から手札にカードを引っ張ってくるカードの総称だ。
最近だと《成就》がそうだ。
『願い』は手札1枚とそのマナコストを支払ってカード1枚をデッキ外からサーチしてくることができる。
ほしいけど普通には引きたくないカードを必要なタイミングで引っ張って来れる、それが『願い』の強みだ。
その代わり『願い』は本来ならテンポを失うし、手札も増えないようになっている。
でも相棒は違う。
厳密には違うけど相棒を唱えたとき、それはその直前にマナも手札も使わずテンポ損を気にしない(打ち消されない)『願い』を撃っていたと言い換えられるんじゃないかな。
これがいかに壊れているか想像するまでもないよね。
ということで相棒のルールは変わるべくして変わった。
それによってスタンを含め多くの環境で相棒を見る機会は少なくなるだろう。
現にスタンで使っていた僕の相棒デッキはルール変更後に何度か回してみたがほとんど勝てなくなってしまった。
それに対戦相手として相棒を見る機会もめっきりと減ってしまった。
相棒を楽しんでいた身としては少し寂しさもあるがこの選択がマジックにとっていい方向に進むと信じている。
ただ、下環境について僕はほとんどプレイしないから人ごとだけど、一度でいいから今のルールにしてから禁止するかどうかの判断をしてほしかったという気持ちもある。
まあ、それでも《夢の巣のルールス》はヴィンテージ禁止を免れなかっただろうけど。
さて、相棒のことは一回置いておいて禁止されたカードについて見てみよう。
僕は禁止告知が発表されたとき次のように考えた。
《時を解す者、テフェリー》と《創案の火》は禁止の可能性が高い。《軍団のまとめ役、ウィノータ》と《裏切りの工作員》のうちどちらかを禁止にするならばデッキを残す意味でも《裏切りの工作員》の方が禁止になるだろう。
結果はご存じの通り《創案の火》と《裏切りの工作員》がスタン禁止、ヒストリック停止となった。
この結果については概ね異論はない。
《創案の火》は踏み倒しカードの常としてカードプールが広く、強力な高コストカードがある環境ほど脅威度が増すカードだ。
そして、これが《時を解す者、テフェリー》との最大の違いだと思うんだけど、次のローテで《創案の火》は落ちない。
つまりローテ後の環境まで考えると《創案の火》がある前提のデザインはとても窮屈なものになってしまうということだ。
しかもよりによってローテ後一発目のセットはゼンディカー次元への再訪だ。
土地をテーマとした次元でランプデッキの成立やそこでフィニッシャーを張るようなファッティが収録されることが期待されている中で《創案の火》から踏み倒した方が強いというのはWotCが望んだ環境じゃないと感じる。
だから禁止予想に挙げたし現に禁止となっても納得がいく。
一方で《時を解す者、テフェリー》はローテで環境を去ることが確定している。
それでも僕はフラッシュ系をはじめとしたインスタントタイミングを重視しているデッキを環境から追い出し、またその効果から除去することが非常に困難なカードは非常に不健全だと考える。
だから個人的ヘイト感情も多分にあったことは承知の上で禁止カードの予想に挙げたんだけど、その後基本セット2021でこんなカードたちがプレビューされた。
露骨に対策カードを刷ってきた。
なるほど、ローテも近いし基本セットでも対策するからOKとみなされたわけだ。
……うん、個人的なヘイト感情はあるけどそれと禁止の是非は関係ない。そういうことだと納得して残りの3か月を耐え忍ぼう。
さてもう一方の禁止は《裏切りの工作員》だ。
《裏切りの工作員》は《軍団のまとめ役、ウィノータ》や《銅纏いののけ者、ルーカ》などから早期に踏み倒され、そのままゲームを一方的にしてしまうカードだということで禁止にされた。
また、禁止の理由としてそれをされると非常に不愉快という理由も挙げられていた。
おや、そのような理由でかつてスタンで禁止になったカードがあったような……
そう、《反射魔道士》だ。
どちらも一度仕事をすればその後の反撃を許さずにアドを維持し続けるカードだ。
そういった意味で《裏切りの工作員》が禁止となるのは妥当性がある。
しかし、デッキを維持する目的として《裏切りの工作員》が禁止になると予想はしたけどやはり《軍団のまとめ役、ウィノータ》も危険な気がする。
それは《銅纏いののけ者、ルーカ》も含めてどちらも《創案の火》と同じ踏み倒し系のカードだからだ。
今後デザインしていくにあたってこれらのカードを意識し続けるのはデザインに強い負荷を与えているんじゃないかと僕は思う。
もしこの負荷を意識しなければ間違いなく《軍団のまとめ役、ウィノータ》(もしかすると《銅纏いののけ者、ルーカ》も)も禁止リストに名を連ねる可能性がある。
ただ現時点ではその踏み倒し先たる《裏切りの工作員》が禁止されたから様子見といったところなのだろうか。
さて、禁止の内容については文句がないのは既に述べたとおりだ。
だけど最近のWotCの禁止方針については少し不満がある。
それがこれだ。
公式の声明文、アメリカ仕草的に真っ向から謝罪できないのはわかるが、今後の対策だったり過去(たとえば《霊気池の驚異》とか)から学んだことがなぜ生かされなかったのかとかが一切ないからまたやらかすんだろ感半端ない
— ゆーとぴあつりー (@teilving) 2020年6月1日
まあ、これは禁止告知直後に感情的になって書いた文だから口が悪いが今も概ね感じていることだ。
少し懐古的になってしまうが、僕がマジックを始めたタルキール・ブロックの頃は「WotCはスタンとリミテを意識してカードのデザインをしている。だから下環境で禁止を出すのは仕方ないがスタンで禁止を出すのはデザインの失敗を認めることになる」といった風潮があった。
この風潮は僕も賛同だった。
この頃の僕はスタン禁止のことを「ただでさえ2年間しか使えないカードから禁止を出すのはWotCの敗北宣言」だと認識していた。
この方針が変わったのが先ほど挙げた2017/1/9の禁止改定だ。
その前のローテでは《集合した中隊》をキーカードに据えたデッキが圧倒的勝率をたたき出していた。
しかし前述したようにWotCはスタンからは極力禁止を出さないという方針を取っていた。
だから非常に強力で環境を染め上げたにもかかわらず《集合した中隊》はローテまで見逃されることになった。
その状況をWotCは間違っていたと判断したようだ。
過去のスタンの禁止はハードルが高すぎたと。
その方針変更自体は素晴らしいことだと思う。
環境が不健全でつまらないまま次のローテまでの2年間を過ごすのは避けるべきだと僕も思う。
だが、そこから少しずつ何かが崩れていったようにも感じる。
《守護フェリダー》の緊急禁止、カラデシュ・ブロック全レアリティ禁止排出など記憶に新しいプレイヤーも多いと思う。*2
そして、激動のカラデシュ・ブロックが過ぎ、スタンにも平穏が訪れたと思ったところで奴らがやってきた。
ここまでくると最近始めたプレイヤーも見知った顔が勢ぞろいする。
まず初めに《死者の原野》が先陣を切ると続くエルドレインの王権では《王冠泥棒、オーコ》《むかしむかし》《夏の帳》が暴れまわり瞬く間に禁止になった。
その時、WotCはこんな声明を出している。
この記事では主に過去(カラデシュ)に出した禁止について、そこから学んだ教訓、最近(エルドレイン)の禁止と《王冠泥棒、オーコ》の失敗についてが掲載されている。
まずカラデシュの禁止について、WotCは「スタンのパワーレベルが低すぎたことが禁止乱発の原因」だと説明している。
つまり、全体的に弱いカードが多い中では少し強い方向にぶれたカードがあるだけで他のカードがそれを止められず、そのカードが支配的になってしまうということだ。
これは環境が非常にカード1枚1枚に敏感で脆いことを表している。
禁止された《密輸人の回転翼機》や禁止にはならなかったものの環境を支配した《ゼンディカーの同盟者、ギデオン》なんかは本来環境が強ければ起こりえない形で支配的であったと彼らは認識している。
ここから彼らはスタンのカードパワーを上げて歪な支配が起こらないようにと舵を転換した。
全体としてのカードパワーが底上げされれば一部の強力なカードが支配的になりかけても他のカードたちが押さえつけることができる。
こうすることで自浄作用が働き環境は健全な方向へと向かうというわけだ。
この方針転換はうまくいっていると彼らは評価している。
ただし《王冠泥棒、オーコ》を除いて。
彼らがその禁止カードを輩出したセットがスタンにあるにもかかわらず明確にデザインの失敗だったと認めることは非常に珍しいことだ。
アメリカが謝罪=責任を取るという文化が関係しているのかもしれないが、基本的に彼らが失敗を失敗だとタイムリーに認めることは少ない。
それほどまでに《王冠泥棒、オーコ》は彼らの目指すべき理想からかけ離れた存在だったことがわかる。
この記事から、彼らが過去を振り返り、そしてそこから学ぼうとする姿勢があることはわかる。
それはいいことなんだけど、根本的にずれているんじゃないかなと僕なんかは思ってしまう。
それは、「そもそも禁止カードを出すハードルを下げたのが間違いじゃないか」ということだ。
前述したようにあるカードが環境を支配し歪んだ状態が続くことを僕もよしとは思わない。
ただ、このことで「最悪禁止にすれば環境を正せる」と思っているんじゃないかという心配がある。
上の記事ではカラデシュとエルドレインの禁止は違う理由で生まれたと語っている。
本当だろうか?
カラデシュの禁止カードたちは本当に環境だけが理由だったのだろうか?
後発のコストの踏み倒しカードは《霊気池の驚異》の教訓を生かせたのか?
《反射魔道士》《約束された終末、エムラクール》のような使われると不愉快になるカードから何を学んだのか?
そして、彼らのいう”うまくいっている”は本当に信用していいのだろうか?
もちろんカードの強さはその時の環境とメタによる相関関係であることはわかっている。
それでも過去の失敗がなぜ失敗したのか、それがどう先のデザインに生かされているのかを知りたいと思うことは許されていいんじゃないだろうか。
《王冠泥棒、オーコ》に関しては珍しくそれが語られた。
だが中身は「今のバージョンになる前はもっとつまらないものだった」「パーマネントを無力化する効果のコストを過小評価していた」「クリーチャーで対処できると考えていたが3マナプレインズウォーカーに対しては有効ではなかった」「もっと対策カード刷ります」といった感じでどこか腑に落ちない回答が多いと感じた。
まとめると禁止のハードルを下げるのならその分デザインは慎重になるべきだし、禁止せざる負えないのならばそのカードが印刷に至った経緯について説明があってもいいと思うわけだ。
ここ数年、《暴れ回るフェロキドン》解禁から《死者の原野》禁止までの約2か月間以外スタンには禁止カードが存在し続けている。
少なくとも僕はそんな環境は健全とは思えないしこんなにポンポン禁止を出し続けている現状に対してWotCがどう思っているのだろうかという疑問はある。
ここまで相棒について、禁止について書いたけど基本的にマジックが好きな気持ちは今のところ変わらない。
もしその気持ちが陰ってきていたなら僕はこんな記事は書かなかっただろう。
今回の禁止告知だけで見た場合、中身は概ね納得のいくものだった。
ただそこから相棒に対する気持ちの整理、最近のスタンの禁止方針に対する不満を文章にまとめておこうと思った。
最後にもう一度、これは僕のお気持ち表明であり回想録であり備忘録だ。
何を言っているんだと思われた方々には時間を取らせて申し訳ないが忘れてもらえると幸いだ。
それでは好きだった相棒に別れを告げ、いつの日か禁止のないスタンが戻ってくることを願って。