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【方形の円 偽説・都市生成論】ビルを見て都市を見ず

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ギョルゲ・ササルマン著『方形の円 偽説・都市生成論』


架空の都市を舞台にその歴史やそこを訪れたものの末路を描くショートショート
この小説は一言でいうとそういった話が36編収録された短編集だ。


本書を書店で見かけたとき「これを読み終わったら書評的なものを書きたい」と思わせる期待感があった。
そして事実、読み終わったので稚拙ながら筆を執った次第だ。


しかしこの記事は当初抱いた期待感を満たしたから書いているわけではない。
いきなりディスるようで申し訳ないが、本書は端的に言うとつまらなかった。
それは本書に収録されている話の多くはよくわからない話であったりオチに意外性を感じないなど、星新一的なショートショートの楽しみを期待すると肩透かしを食う羽目になるからだ。
それでもこれを書いているのは読んでいる中で様々な気づきや本書に対する見方が変化することがあり、一度言語化してみたくなったからだ。
だからこの記事は解説の酉島伝法氏の言葉を借りると案内所をこのネットの片隅に建てる行為をしようという話だ。


まず前提として帯にもあるカルヴィーノ著『見えない都市』との類似点についてだが、僕はこちらの作品を読んだことがないため割愛させてもらう。
同時代に国も違う別々の作家が同じように架空都市をテーマに短編集を書いたという奇妙な一致性があるらしいため機会があれば比較のために読んでみたいと思う。


話を戻すついでに作者と本書の歴史について触れていく。
著者はギョルゲ・ササルマン。
ルーマニア出身で本書は1975年に刊行された。
当時のルーマニア社会主義国家であり、当局の検閲により全編収録はされなかった。
初めて全編が収録されたのは1994年のフランス語訳版である。
その後、スペイン語版・ドイツ語版などを経て英語版が出たのが2013年。
この時点で英語版訳者が"根本的に私の理解に抵抗した"という理由で12編が訳されずに出版されることになった。


ここに冒頭のディスへのアンサーがある。
日本語版では英語版で訳されなかった12編も含め36編すべてが収録されている。
このことは僕たち日本人にとって解像度の低い文化圏かつ今の時代感覚ではない話が多く収録されていることを表している。
文脈のない話には興味が引かれにくいし、逆に文脈がありふれた話は興味を失いやすいともいえる。
この前提を持たないまま日本語版の初版である2019年の作品だと思って読むと違和感を抱き続けることになる。


さて、これで"なぜこの本がつまらないか"については終わろうと思う。
ここからは本題の"本書に対する気づき"について語ろう。
まず本書の特徴として1つ1つの話が非常に短いというのがある。
だいたい5ページ前後で1つの話が終わるのだ。
つまりたった5ページで都市の見た目や特徴を、そこに住む人々や訪れた人を、そしてその終焉を描き切ろうとしているということだ。
というよりも描き切るにはその程度のページ数で十分だと言わんばかりの圧すら感じた。
もちろんそのせいで説明不足の物足りなさを感じるのだが、その不足感は次の都市に向かわせる動機になっているようにも感じる。
そういった構成が漫然と感じていた架空都市とショートショートの相性の良さの正体なのかもしれない。


また、副題の『偽説・都市生成論』について。
購入当初はただかっこいい副題だという感想しかなかったが、読んでいく中でこの副題が各編へ与える印象の寄与が大きいことに気づいた。
本書は1編1都市を扱っており、各編のタイトルはその都市名からつけられている。
普通都市は都市そのものがあり、そのあとに名前が付けられるという流れになると思う。
しかし、副題を鑑みるとまず極端な都市名を設定し、それに沿った都市を作り上げた結果その都市に訪れる結末は何かという実験を行った報告書というような印象を抱かせる。
それによってどこか架空の都市を作り上げることで現実世界への皮肉や警告を表しているのではないかという錯覚を与えているように感じる。
それは著者による最初の都市、ムセーウム(学芸市)が『スクンテイア』誌*1に寄せられた抗議に対して同紙の自身が受け持つコラム内で寓話として答えたものだったことが関係しているのかもしれない。
だが、これは別に啓蒙的なことを目的に書かれたものではないことも副題からわかる。
偽説というようにこの話はあくまでフィクション、身も蓋もないことを言えばウソであり、それによって本書はエンタメとしての立場を守っている。
虚構と現実。
報告書と小説。
この副題によってそれらはうまく1つにつなぎ合わさり、作品の寓話性を高めることに成功していると思う。


さらにあとがきを読むことで本書の成立過程、著者自身や各国訳者の本書に対する思いを読むことでも最初に抱いたつまらなさの理由に気づけたり各都市に対する考え方を変化させるきっかけになったりした。
これは持論だが、僕はあとがきや解説といったものも作品の一部ととらえている。
だからこそ、架空都市というミクロな視点からあとがき・解説というマクロな視点に移ることができることは本書にとっては重要な部分を果たし、本書への解像度を高めていると思う。


さて、ここまででは本書の中身から感じた僕の気づきだ。
この気づきであれば僕以外が本書を読み終えたときも同じような変化が訪れるかもしれない。
だから最後にそれらを踏まえて僕自身が本書に抱いた感覚を書くことで誰かの気づきになれればと思う。
まず都市を題材としているから本書全体を1つの都市だととらえてみよう。
そうすると本書に収録されている各編における"都市"は都市にそびえるビルのようなものだととらえることができる。
本書を読んでいる間はビルの1本1本を詳しく見て回っている段階だ。
ビルごとに大きさや形状、色など違いはあるかもしれないが、基本的にそれらを見て回る行為はさして面白いものではないと思う。*2
だけどすべてのビルを見終わって少し俯瞰した立場で眺めると、それらがひしめく都市の全容を知ることができる。
そうなったときにはじめて都市としての風景が出来上がり、感慨を抱くことができるのではないかと考える。
つまり、「木を見て森を見ず」ならぬ「ビルを見て都市を見ていなかった」という気づきが本書をより芳醇なものにしていると。
そのことに気づいた後で改めてビル1本1本を見るとこのビルは都市のどこに位置していていてどういう歴史のあるビルなのかがわかってくると思う。


僕の案内所建設はここまで。
いろいろ書いたが僕自身は本書を読んだことに満足している。
ただし、前述したように小説として面白いかどうかといわれると疑問が残る作品でもある。
だから僕自身はこの本を人には薦めない。
それでも気になった人がいたら一度読んでみてほしい。
そうして案内所を建ててみたくなったら思い思いの案内所を建ててみてほしい。
それらの案内所が寄り集まり、『方形の円』という都市として完成されていくのだろうから。


*1:ルーマニア共産党の機関紙。現在は廃刊

*2:ビル愛好家がいたら申し訳ない